能力主義

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私が努力論にどれだけ抵抗したところで、努力論的な感覚からは逃れられないみたいだ。なにかの職能、技能を持ち合わせていることをアイデンティティにしようとしている。そして私にとってそれは常に欠如している。欠如態なのだ。なにかに長けている訳ではない、という事態に直面した今、私の浅ましいプライドのようなものが輪郭を伴って目の前にありありと姿を現す。
そして私はこの醜さへの抵抗と能力への羨望の狭間で、「〇〇に向かって努力している最中です=学生です」という立場に身を置き続けている。
そのうち学生という立場からは離れるだろうけれど、「何かを目指している最中です」という立場に留まり続けることは変わりないのだろう。そうでない状態で、ここにいるのが怖いのだ。父親に、常に努力の余地がないか追い立てられ続けていた呪いみたいなものだ。

 

2

得た能力を獲得済のものとして自信としてしまう怖さを私は知っている。私の持ち物を、無意識的に他人に振りかざす暴力だ。相手も私も気づかず、静かに相手(と私)の存在を否定し、傷つける。

 

3

おそらく私がいちばん辛くなるのは、事故や老化で身の回りのことすらできなくなったときだろう。デイサービスセンターで、介護士の世話を拒否するだろう。父や祖父と同じだ。能力主義とマスキュリニティ。

やさしさの技術や、目先のものに飛びつかない知的体力を鍛えたとて、根っこの部分は消えない。相当まともに向き合わないとボケたらぜんぶ露呈するんだろうな。

 

4

私は能力主義から逃れられない。