能力主義

1

私が努力論にどれだけ抵抗したところで、努力論的な感覚からは逃れられないみたいだ。なにかの職能、技能を持ち合わせていることをアイデンティティにしようとしている。そして私にとってそれは常に欠如している。欠如態なのだ。なにかに長けている訳ではない、という事態に直面した今、私の浅ましいプライドのようなものが輪郭を伴って目の前にありありと姿を現す。
そして私はこの醜さへの抵抗と能力への羨望の狭間で、「〇〇に向かって努力している最中です=学生です」という立場に身を置き続けている。
そのうち学生という立場からは離れるだろうけれど、「何かを目指している最中です」という立場に留まり続けることは変わりないのだろう。そうでない状態で、ここにいるのが怖いのだ。父親に、常に努力の余地がないか追い立てられ続けていた呪いみたいなものだ。

 

2

得た能力を獲得済のものとして自信としてしまう怖さを私は知っている。私の持ち物を、無意識的に他人に振りかざす暴力だ。相手も私も気づかず、静かに相手(と私)の存在を否定し、傷つける。

 

3

おそらく私がいちばん辛くなるのは、事故や老化で身の回りのことすらできなくなったときだろう。デイサービスセンターで、介護士の世話を拒否するだろう。父や祖父と同じだ。能力主義とマスキュリニティ。

やさしさの技術や、目先のものに飛びつかない知的体力を鍛えたとて、根っこの部分は消えない。相当まともに向き合わないとボケたらぜんぶ露呈するんだろうな。

 

4

私は能力主義から逃れられない。

「不干渉、自由、東京」

「不干渉、自由、東京」

 幼い頃、私は干上がった用水路や神社の床下にいた。そこにいればおかしな形をした新種の虫や石垣の隙間に潜む妖怪にいつか出会えると思った。小学校の休み時間、グラウンドの白線の内側や人のいる遊具へは近寄れなかったので、体育倉庫裏や生垣の裏などに隠れた。地面を這うハサミムシや出てくる所を間違えたハリガネムシを眺めて過ごした。虫と私と妖怪専用の秘密基地だった。

 中学のとき、私は学校の中に留まってよい場所を見出せず、休み時間は委員会の仕事中を装って校内の廊下を歩き続けてやり過ごした。この学校には、公的規則に裏付けられる明瞭な理由がなければ、一人で一定の場所に留まってはいけないという暗黙のきまりがあった。この施設内における社会性の象徴として共同幻想となった教室後方の大きな輪が学校中を漂い、絶えず私を追ってきた。2年の終わり、この苦痛に耐えかねた私は自ら心を折り、息を止め、この共同幻想を丸呑みした。

 それ以来、私は強い変身願望を抱くようになった。一刻も早くこの振る舞いを辞め、欠如している社会性を身に着けなければ、あの苦しみを再び味わうと思った。私は社会性獲得の試みとして、特定の人物像の言動を、自分の癖になるまで徹底的に真似た。失敗すればまた別の人物像を試した。しかし、これらの試みは毎回頓挫し、副作用も現れ始めた。副作用は次第に重くなり、終いには身動きが取れなくなった。私は休学を決めた。

 休学中のある日、私は建物と建物との間に、廃材を囲う見知らぬ草と切れた蜘蛛の巣が静かに漂っているのを見た。心地よい光景だった。そのとき私は、幼い頃に居たあの現実の裂け目こそが、実世界で身動きが取れなくなった私に自由を与えてくれる空間だと思った。私が度重なる変身願望の裏で求め続けたのは、寄りかかるための凝集させた概念体ではなく、圧倒的自由の下で私の存在を丸ごと受け入れてくれる場所と、他でもない私の意思だと思った。

(2022年8月。休学中、東京にて。)

 

ボブカット

 ボブの中では、蛹の中の蝶のように液化していても構わない。誰かがこちらを観測したときにだけ、人の形に凝集されればそれでよい。私は、私に観測され続ける「私」ではなく、世界に向かってただ放散する眼でありたい。周囲に散って広がり続ける運動の夢をみる眼は、その存在を阻害されることはない。自由気ままに形を変えながら、場の中を脈拍の液として漂うのだ。

(2022年10月。東京にて。)


 私は、この願望をかなえてくれるのが他者だということを知った。
 私が他者によって書き換えられていくことを受け入れれば、
 私が他者を受け入れれば、
 私が心を開きさえすれば、
 私は他者へただ近づいていく主体性であることができる。形も時間も持たずに浮遊する、脈拍の液でいられる。そういう心地よさ。他者の目が私に獲得させた形態と時間によって委縮した私は、けっきょく、その他者がいてくれることによって心地よくなれるみたいだ。
 ボブカットのなかにいようと、私を曝されようと、それは他者が外部にいることによってしか実現しえない、地に足の着いた浮遊感ということらしいんだ。

(2023年10月11日。広島にて。)

怪物

6/29、怪物をみた。

とてもきれいだった。私が望んでいるもの。私の理想だった。

 

しかし、星川君がきれいすぎることは否めない。湊君が求めたもの、そのものだ。そんな奇跡があるもんか、と思いながらも実際にそこに存在しているんだからしかたがない。

現実はもっと残酷で、暴力を受けるともっとむごい歪み方をする。いちばんやさしかった人が、そうやって怖くなっていくのを目の前でみてきた。あんなにきれいでそのままでいられるなんてことはめったにない。

私は社会を残酷なものだと思いこんでいる節があり、きれいなものを見たとしても「そんなにきれいなわけがない」「この人はこんな歪みを抱えているにちがいない」と私の予見の中に収めようとしてしまう。私は私のみた残酷な景色がなかったことにされてしまうのを恐れている。
でもその一方で、私はその残酷さや私の認識をほぐしてくれる人を探している。私が不安を口にしても、そんなものをするりと受け流して、ただそのままでいてくれる人を探している。私の想像の中に納まらないひとに、今いる世界の外に手を引いて連れ出してほしいのだ。

稀に、残酷な目にあっていても、星川君みたいに、やわらかい部分のそのままを保っている人に出会うことがある。不思議な人。信じがたいけれど、その人は実際にそこにいるのだ。

そういうことがあるから、わからない。星川君はたしかにきれいすぎる人で、湊君の中に自分の世界を投影した脚本家の幻想なのかもしれない。自分が救われたいがための物語消費なのかもしれない。それでも、やっぱり外に手を引いて連れ出してくれる人はいる。みんなは私の世界の外にいる。そうじゃないと、寂しくて、やるせなくて、生きていけないのだ。一人ではいられないのだ。